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ネパール通信12-2-4

 今回の通信では、通信を送って頂いている方の、周囲のいる方達の紹介です。

十日間のダサインの祭りが始まって八日目。ネワールの人たちはシャーコテャーコ(猿の悪頭ラーバンを殺して勝利した)と呼ぶ日です。
里帰りした女性が むずかる娘を左手で脇にかかえ、きれいに整えられた捧げものの皿を右手で掲げて家の前を通って行きました。
「プジャはしないけれど神様を祀ってある場所をぐるっと廻ってくる」と言って、お姉さんが出て行かれたのはしばらく前です。
お姉さんが(従って弟の家主も)、「今年はママを亡くしたのでお祝いはできないけれど ごちそうは食べるからね」と教えてくれたのは着いて日も浅い頃でした。
ママは 母の兄弟で 「いないママよりは片目のママの方が良い(片目でもママがいてほしい)」ということわざがあるとおりに ネパールでは特別な親族です。
向かい家のサキャさんの子どもは長らく長男と三人娘と思い込んでいたのでしたが、ある日末娘と思っていた子が「ここはママの家なの」と打ち明けてくれて驚いたのでした。
上二人のお姉さんたちと同じ私立学校にやってもらい、着るものも食べるものも何ら変わらずに家族の一員として育てられていました。
初潮の前後くらいの歳で我が家に戻ったようで それからは祭りの時などに母親と一緒に来ているのを何回か見かけましたが、もうお嫁に行ったかもしれません。
この家では彼女がいなくなってからも次々に女の子が一緒に暮らしています。
どの子もママの家にお世話になっていたのかは確かめていませんが、それほど裕福とも見えない「紙漉き」家内工業の家です。
私が住むようになってから元気だったお祖父さんが他界されましたが、病身のお婆さんの方は今回まだ姿を見かけませんが、亡くなられた話しは聞いていません。
ママは あらゆるところで あらゆる時に 特別の響きを込めて語られます。
先日訪ねた時に トウダハに住むチニさんにも 「今年のティハールはママの家で過ごすから、ママの家の方へ来てね」と念を押されました。
チニさんは バグマティ河を挟んだ川向こうのサインブーから王様の警護兵の家系だった「父さん」の所にお嫁に来ました。
これも先日初めて聞かされたのですが、彼女は後家で 出戻り娘と紹介されていた女性は先妻の子でした。
その娘さんは知り合った当時働いていたシェルパホテルが閉鎖になってから私立学校の住み込み寮母の職を得て、もう数年会っていませんが、会えば親しく話します。
「父さん」は80歳近く 訪ねる度に益々好々爺になっているようにみえます。
三人息子は全員指呼の距離に暮らしていて、末息子一家と一緒に暮らしているチニさんも「今年70歳になる」と、以前聞かされたよりも実は年上だったことを打ち明けてくれました。
一度 彼女の所からブンガマティに行くことになっていた日に孫息子が道案内方々その「ママの家」に連れて行ってくれたことがありましたが、その時に会ったのはママとは思えない若い人でした。きっとママの息子さんだったのでしょう。
ママが健在かどうかは聞けずにいますが、もしご健在ならこの地では相当な長寿ではないでしょうか。
チニさんから実家に行く話しは聞いていないように思います。
チニさんの年齢になってもママの家は特別な存在で、いつでも彼女を受け入れてくれる場所のようです。
知り合った当時ちゃきちゃきのお孫さんで まだ抱かれていた 今は13歳の弟共々 ずっとその成長を見せてもらった サイエンスを学ぶ大学生のお孫さんも「お婆ちゃんはもうたいてい家に居て、どこにも行かないけれど、時々ママの家に行って居ないから、来る時には電話してね」とケータイの番号を教えてくれました。
今 彼女が行くところは ママの家 と プジャのために行く寺院 だけになってしまったようです。
私が「チョバールの道を歩いて来た」と言うと 「キルティプルもチョバールももう辛くて登れない。あんたの居心地のいい部屋、大好きだよ」と何回か孫を連れて訪ねてくれた昔を懐かしんでいました。
 
10/23 キルティプルから 

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